たまにはこんな恥ずかしげな文章も悪くない。

 普段ゴスペルを歌っているものの、日頃はなかなかそれが実感として得られないんだよね。でも今日は宗教の根源について考えさせられました。

 というのは、こんな本を読んだから。

「生きる者の記録 佐藤健」(佐藤健と取材班/著・毎日新聞社
http://www.esbooks.co.jp/product/keyword/keyword?accd=31104660

 この佐藤氏は毎日新聞の記者で、1976年に「新聞記者が雲水になってみた」という記事で、自らが雲水(修行僧)になって、その体験を記事にしてみせるというルポを書きあげた記者!修行僧になるってのはすんごく厳しい修行が必要なのに、それを新聞記者が事実をより鮮明に伝えるためとはいえ、自らその中に飛び込むとは、まさにジャーナリスト魂!
 これを契機に多くの「宗教と人間」の記事を書き続け、ライフワークとしてきた記者なのです。 

 そんな佐藤記者が定年目前に、ガンを宣告されます。
 で、この本は、そのがん宣告から病床までの記録を、自らつづった本なのだ!
 
 「自分で自分のことを書く?何かえげつないし、ちょっとナルシズム入ってないか?」と読み始めは思ったりもしたんだけど。
 ‥‥が、そんな甘いもんじゃなかったよ。
 読み進めるうちに「「痛み」を表現しようという姿」が伝わってきて、自分の甘さを恥じてしまいました。

 まだ動けるうちは秋田の玉川温泉にて岩盤浴(地表から放射能が発射する特殊な土地で、がん細胞を破壊してくれる、らしい)に行ってレポートなどしてたものの、やがて病床に伏し、それでもなお書き続け、痛みで腕が動かなくなると、口伝で仲間の記者に書いてもらい・・・ただ「生きる」姿が、これほどまで尊いのかとただただ感動してしまいます。

 そしてついに口もきけなくなると、口伝で書いていた仲間の記者がその様子を記録し続け、ついには彼が逝く瞬間までを文章にする‥‥。
 そのガンと闘う姿から逃げることなく、客観的に記録ようとする姿に、体中が感動に震えてしまったよ!
  
 文中で仲間の記者が悩みます。もしかしたら、このルポが佐藤氏の寿命を縮めてしまっているのではないか、と。
 すると佐藤氏はこう言った、と。
 「かもしれないな。でも、これでいい。大事なのは生きた日々の濃度なのだ」

 ズシーンと響いたね、この言葉。
 「生きる」意味の重みを含んだこの言葉!何ものにも変えられません。

 佐藤健さんのご冥福をお祈りします。