人を助けて、助けられるとは、どういうことか その2

 「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」のつづき
 http://product.esbooks.co.jp/product/keyword/keyword?accd=31104711

 前のエピソードだけでなく、鹿野の行動は、時にわがままともとりかねない。しかし主体的に「生きる」ためには彼は相当にエネルギーを介助ボランティアにぶつけなければ、実現しない。しかしすべてを介助スタッフのなすがままに受け入れたのでは、それは主体的ではない。しかし彼はボランティアがいなければ、決して生きていくことのできない人間なのだ。
 しかし考えてみれば、健常者でも、誰かしら大なり小なり人と関わって、時にぶつかったり離れたりしながら生きていかなければ、一人では生きていけない。ということに気づくことで、これが「障害者問題」に終始しない話になることに気づくのです。

 460ページにもわたるノンフィクションながら、結局、この本を読んでわかるのは、鹿野の実践した介助=障害者の関係を通して、人と人がかかわることとはどういうことか、という、あたりまえといえばあたりまえすぎる命題なのである。

 もちろん、大きなテーマは文中にたくさん登場する。特に鹿野氏が率先して障害者の自立生活運動を推進したり、親元や施設を離れて自立生活を実践することなどは、行政や世間の壁にたびたび衝突する、想像を絶するエネルギーを文中からビシビシ伝わってくる。それでなくても筋ジストロフィーという病気は常に日一日、死に近づいていく病気である。その恐怖たるや想像以上のものであろう。

 しかし不思議なもので、彼が自分の「生きたい!」というエネルギーをボラにぶつけることで、ボラも自分自身変わっていく、というのだ。
 先ほど登場した彼ほか、人と接することが苦手な学生がボラスタッフを続けることで(もちろんこの間、鹿野に叱り飛ばされもする)アイデンティティを身につけていったり、主婦ボラが身の内話をするうちに夫婦関係の空洞からボラを始めた旨を話し始め、ついには独立しようと離婚し、ホームヘルパーの資格を取得にチャレンジしたりなどなど。ボランティアも鹿野を通して、何かを得ていくというのだ。

 タイトル副題に「鹿野靖明とボランティア」とあるように、その「と」がすごく描かれた本ですね。

 ぜひぜひ、ボランティアに関わりがあってもなくても、健常者も病気の人も、読んでほしい!